全ての音が消えた。
彼女の言っている言葉の意味を理解するのに、どの位の時間(とき)を費やしたのだろう。長い時を過ごしたような気持ちだったが、実際は瞬きをしただけの間だろう。
無限に続く地獄の様な長い時。
悲しげに男を見る少女―――。一年の月日は、短いようで、だが長い月日だったのかもしれない。今、目の前に居る少女の外見は、あの時よりもずっと変わっていた。
肩につく位だった桜色の髪は、今では背に届く位に長く、
名を呼ぶと、こちらを伺うように覗き込んだ瞳の色も、
笑顔すらも…
ここに居る彼女は、彼女のようで彼女ではない。まるで同じ形をした別人のようだった。
本当に、忘れてしまったのか?
皆の事も、
あの戦いも、
過ごした日々も…
「何も思い出せないのか?俺の…事も?」
一音一音。悲痛な叫びにも似た言葉。
無情に頷く彼女にバッツは顔を伏せた。
手を伸ばすと、こんなに近くに居るのに。言葉も、想いも…何も届かない。
「レナ…一旦。タイクーンへ帰らないか?皆心配しているし、もしかしたら、何か思い出すかもしれないだろう?」
そう問われている“彼女”は、彼の問いに答える事なく頭を振るばかりだった。
何かを考えているようだが、今の彼女が何を考えて居るかなど分かる筈もなく、会話は途切れてしまう。
―――蒼い瞳が揺れる。
目の前に居る男を、翡翠の瞳はただ見つめるばかり…
レナ―――
確かに自分の名を呼ばれた言う事は、そう…なのだろう。目の前にいる人は、自分を知っているのだろう。
しかし、記憶を持たないレナにとってはまさに未知の人だ。全くと言って良い程。彼を思い出せない。それどころか、恐怖すら感じてしまった。
「(ああ…)」
言葉も、記憶も、思いすらも、何もかも真っ白になって溶けてしまいそうだ。
彼のあお……蒼を見ていると、私……
私の、名前…を呼んでい…る…誰か……が…
あ・・・お・・・・い
「っ…」
ずきりと頭が痛む。瞼を閉じた一瞬だけの間。大切な何かを、思い出しそうだった気がする。
それでも、心はとうに決まっていた。
「ごめんなさい。私、帰れません…」
タイクーンがどんな所で、どんな場所なのかは分からない。彼の言動からして“帰りを待っている人がいる?”のだろう。だが今は、何処へも帰れない。帰るわけにはいかない。
見据えるその眼は、誰にも変える事の出来ない決意が見える。
揺るぎない瞳の奥に決意と言う炎が見えた。
―――悲しげに遠くを見つめた表情は、
あの時見た、消えてしまいそうな彼女の顔と同じで…
「レナ・・・」
帰ろうとしない。
如何してなのか。そんな事、理解できるわけがない。
ずっと、ずっと探していた。助けられなかった。君を…守れなかった。
すり抜けていく小さな手
「ごめんね」と言った悲しげな顔
届かない声は、やがて闇に消えて―――
「私は、帰れません。ごめんなさい…」
「皆、心配しているんだぞ」
決して彼が怒鳴ったわけではない。静かな悲壮と悲しみを含めた声。
放った言葉に少女が怯えた。肩を震わせて、こくりと喉を鳴らす。
腕をつかんで、彼女との距離を一気に縮めた。尚も怯える彼女に湧き上がる感情が止めどなく溢れ、さらに掴んでいた腕に力が入る。
「いたっ…」
顔を歪ませたレナの顔を見た瞬間、バッツは握りしめていた腕を緩めた。
何かを察したかのように少女―――レナは、男の手から逃れようと一歩後ずさり。恐ろしく華奢な腕を引き離した。
「っ、ご…めん」
我に返り。バッツは力なく腕を下した。
夕暮れの朱が二人を照らす。
悲しみを鎮めるかのように沈んでいく夕日。静寂の闇は、安らぎを齎してくれるのだろうか…
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